協力者、周辺の人々

ヴェルナー・ショル
(1922〜1943?)


1922年、コッハー河畔の小さな町フォルヒテンベルクでショル家の5番目の子どもとして生まる。年の近いゾフィーとは特に仲が良かった。ヴェルナーは兄姉たちと同じようにヒトラー・ユーゲント(の年少組織ドイツ少年団)に入っていたが、兄ハンスがユーゲントから離れると同時にヴェルナーも活動から遠ざかっていった。彼はハンスとともに「ドイツ青年団11月1日」に入り、北欧やイタリアまでヒッチハイク旅行をしたり、哲学討論などに参加するようになる。

しかし1937年秋、秘密警察による非合法同盟青年団摘発の一斉捜査が始まり、15歳のヴェルナーは姉インゲとともにウルムの自宅で逮捕された。吹雪の中、幌なしトラックでシュトゥットガルトへ送られ、8日間の取調べの後、釈放された。

彼は早くから抵抗活動を考えていたようで、深夜、ウルム裁判所前にあるユスティティア(ローマ神話の正義の女神)像に鉤十字の旗で目隠しをしたり、駐屯軍の式が行われている広場で爆竹を鳴らすなどの行動をひとりで行っていた。1939年9月の開戦直後、親しい友人オトゥルに「サボタージュをやる抵抗グループを作ろうと思うけれど、いっしょにやるかい?」とたずねている。

大学入学資格試験を終えたヴェルナーは、1941年4月から勤労動員のためプロイセンの基地へ、その後大西洋岸の塁壁作りの工事のためブルターニュへ送られた。勤労動員期間終了後はすぐに兵役に就くことになっており、1942年7月、彼の部隊はロシアへ。数週間後、前線実習のためロシアへ来たハンスの部隊が近くにやって来たため、二人は時間をみつけては訪ねあった。

1943年2月、両親がショル兄妹逮捕の知らせを受けたのは逮捕の翌日で、休暇の出たヴェルナーがちょうどロシアからウルムに帰って来たところだった。日曜には面会ができないため、月曜日に両親とヴェルナーがミュンヘンへ向かった。入廷許可証を持っていなかった3人がなんとか中に入ることができた頃には、裁判はほとんど終わっていた。

両親は夕方、兄妹に面会することができたが、彼らが直後に処刑されるとは知らないまま、裁判所で知り合った司法修習生に、まだ出されていなかったクリストフの減刑嘆願書を依頼し、ウルムへ帰っていった。ヴェルナーはミュンヘンに留まり、翌日やって来た姉インゲ、友人オトゥルと3人で検事長のところへ面会許可をもらいに行ったが、そこで二人が前日処刑されたことを知らされた。例外的に家族が埋葬することを許され、翌2月24日の午後遅く、再びミュンヘンへやってきた両親や友人らとともに、兄妹をペルラッハ墓地へ埋葬した。

数日後、両親と二人の姉はウルムの自宅で逮捕された。ヴェルナーは国防軍の制服を着ていたため逮捕されずに済んだが、間もなく休暇が終わり、東部戦線へ戻らねばならなかった。ちょうどその頃、スターリングラードで負傷したフリッツ・ハルトナーゲル(ゾフィーの恋人)が帰国したため、ヴェルナーは拘置所にいる両親と姉たちのことを彼に頼んだ。フリッツは可能な限り面会に行き、8月の裁判(外国放送を聴いていたとの理由で父は懲役2年、母、姉たちは無罪)までショル家の人々を支えていた。ヴェルナーはその後ロシアで行方不明となり、ウルムの家族のもとへ戻ることはなかった。


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ハンス・ヒルツェル

マルティン・ルター教会主任牧師の息子。1942年当時、ウルムの文科系ギムナジウムに通う高校生。ヒルツェルのクラスは、当時としては珍しく反体制的な生徒の多いクラスで、ユーゲントの活動にまったく参加せず公然とヒトラー批判を口にする者もおり、その中心的グループがヒルツェルと友人たちだった。ハンス・ショルも受け取った、ミュンスターのガーレン司教の説教を印刷したビラをウルムの家々に配布したのもヒルツェルの友人だった。

姉ズザンネがゾフィー・ショルと親しくなったことがきっかけで、ヒルツェル家とショル家の人々の付き合いが始まった。1942年夏、白バラのビラを郵便で受け取ったヒルツェルは、ビラの内容から送り主がハンス・ショルではないかと考え、それを確かめるためにミュンヘンのハンスを訪ねた。この日がちょうど学生中隊がロシアへ向かう前日であったため、晩に開かれた送別会にヒルツェルも出席、ハンスの友人たちに紹介された。この訪問をきっかけにヒルツェルは白バラ抵抗運動の協力者となっていく。

学生たちがロシアにいる間に、ゾフィーは新しい謄写器の調達をヒルツェルに依頼し80マルクを渡している。11月に帰国したハンスから改めて協力を依頼されたヒルツェルは、同級生数名にこの抵抗運動について語り、フランツ・ミュラー、ハインリヒ・グーターの協力を得る。ヒルツェルはミュラーとともに、電話帳に載っているシュトゥットガルトの住所から送付先を選び出し、ビラ発送の準備をした。警察の目をウルムに向けないよう、シュトゥットガルトまで行き、市内の複数のポストから封筒を投函。シュトゥットガルトの音楽大学に在学中だった姉ズザンネもこれを手伝い、弟がウルムへ戻った後も、残った封筒を一人で投函して歩いた。

1943年2月のショル兄妹の処刑後、白バラ関係者が次々と逮捕され、ヒルツェル姉弟、ミュラー、グーターも逮捕される。4月19日に行われた白バラに対する二度目の裁判で、民族裁判所は彼らを「愚かな少年少女」といい、ヒルツェル、ミュラーに5年、グーターに1年6箇月、ズザンネに6箇月の禁固刑を宣告。ズザンネの刑期が他の女学生たち(禁固1年)よりも短いのは、金髪碧眼のアーリア系容姿が裁判長フライスラーに好印象を与えたため、と後にヒルツェルは語っている。


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オトゥル・アイヒャー(1922〜1991)

1922年生まれ。カトリック家庭に育つ。ヴェルナー・ショルと同じ高校に通う生徒だった。ヒトラー・ユーゲント入団を最後まで拒否したため、大学入学資格試験を受験できなかった(同学年で入団しなかった者はヴュルテンベルク州全体で3名のみ)。

カトリックの雑誌『高地』の熱心な読者だったオトゥルは、1940年に同誌へ論文を投稿している。掲載はされなかったが編集長のカール・ムートの目にとまり、ミュンヘンへ来るようにとの手紙をもらう。1941年3月、オトゥルがムートを訪ね、親しい交際が始まった。1941年秋に召集されたオトゥルは、インゲ、ハンスの二人にムートへの使いを頼み、二人をムートと引き合わせた。これをきっかけにムートとショル家の人々は親しくつきあうようになる。

この頃オトゥルは、戦争のために会えなくなった友人たちを結ぶ回覧同人誌を作ることを計画、兵営で許された個人の時間をすべて使いながら雑誌『カンテラ』を編集、1941年秋から42年2月までに3号を発行する。軍隊に召集されてからも、オトゥルは可能な限りのサボタージュ(重病人を装ったり、前線で行方不明になったり)を行い、個人的抵抗運動を続けていた。

1942年末頃からオトゥルはミュンヘンの友人を紹介したいというハンスの手紙を何度も受け取っている。ハンスからミュンヘンへ来るよう熱心に誘われていたオトゥルは、1月中旬、リンツ近くの衛戍病院にいた彼を見舞ったゾフィーに退院したらすぐにミュンヘンへ行くと約束。1943年2月18日にハンスたちの下宿を訪ねたが、彼を迎えたのはショル兄妹ではなく家宅捜査中の秘密警察だった。この時オトゥルも警察へ連行されたが、翌日釈放されている。ムート家に身を寄せたオトゥルはそこで初めて大学で起きた事件を聞いた。しかし警察で見かけたハンスが非常に落ち着いた様子だったことから、ショル兄妹が反政府運動にかかわっていたとは、この時もまだ想像もできなかった。

事件後、ウルムの人々はショル家を避けるようになり、新聞にも一家を誹謗中傷する記事が載った。ウルムに住めなくなった一家はドナウエッシンゲン近くの山荘に移り、後に軍を抜け出したオトゥルもこの山荘に合流した。

1952年、インゲ・ショルと結婚。1953年にインゲや友人らとともに、バウハウスの理念を継承するウルム造形大学(1953-1968)を設立。後に学長も務めた。ミュンヘン・オリンピックではデザイン・コーディネーターとして活躍。西独を代表するグラフィック・デザイナーとなった。


デザイナー『オトル・アイヒャー』についての参考サイト:

潟Aマンズの「データ・ベース」内「近代デザイン史年表」にあるオトル・アイヒャーのページ
http://www.amans.com/database/history/1945/1945.html

1989年武蔵野美術大学・企画展
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/1989/1989.html


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