協力者、周辺の人々

トラウテ・ラフレンツ(1919〜?)

ハンブルク生まれ。1920年代に改革モデルとして設立されたリヒトヴァルク校に通う。この学校は教師の多くがナチスに同調しなかったため、ナチス政権掌握後に多数の教員が追放されたが、その後も1937年に閉鎖されるまで「頽廃」芸術、哲学、文学などを取り上げ続ける学校だった。トラウテは、他校の教師となっていたエルナ・シュタールが、もと教え子たちを自宅に集め開いていた読書会に参加しており、また、この会で知り合ったハインツ・クハルスキーが主催する別なサークルにも参加してしていた。

ハンブルク大学からミュンヘン大学へ移った1941年春、トラウテはハンス・ショルと知り合う。政治的立場を同じくする二人はすぐに親しくなり、ハンスの友人オトゥル発行の回覧誌「カンテラ」のために原稿を書いたり、12月の休暇中にショル家の人々と一緒にスキー旅行に行くなど、大学以外の場所でもつきあいは続いていった。

1942年5月、白バラのビラを読んだトラウテは、以前彼女がハンスに教えたある説教が引用されていたのを見て、彼がビラを書いたのではないかと考え尋ねた。ビラと彼とのつながりを見破ったトラウテに対して、ハンスは「書き手が誰かを聞いてまわって製作者を危険にさらしてはいけない」とだけ答えた。トラウテはそれ以上何も訊かず、ビラが広範囲に撒かれるように務めた。11月にハンブルクへ戻った際にハインツ・クハルスキーのグループと接触。ミュンヘンの白バラについて語り、ビラを手渡し、それらを複写して北ドイツに撒くよう依頼した。

1943年2月のショル兄妹の処刑後、トラウテも逮捕され、多くの白バラ関係者と同じく1943年4月19日に民族裁判所で有罪判決を受けた。禁固1年の刑期を終えて出所した後、ハンブルク・グループとのかかわりから再逮捕される。ベルリンが爆撃で破壊されていたため、民族裁判所はコットブスに移り、被告のトラウテも1944年11月にコットブスの刑務所へ。しかし1945年1月、アウシュビッツから送られてきた人々で刑務所が一杯になり、ソ連軍も近づいてきたため今度はライプチヒに移された。裁判所がバイロイトへ移ることになり、トラウテもまたバイロイトへ。逃げまわる法廷に引きずりまわされているうちに、1945年4月15日、トラウテは進撃してきたアメリカ軍によって解放された。

戦後、トラウテはアメリカへ移住し医者となった。


リヒトヴァルク
1852生−1914没。1886年ハンブルク美術館長に就任。19世紀末から20世紀初めに起こった、ドイツ新教育運動(改革教育運動)の源流である芸術教育運動の指導者。これらの運動を、教師を主体とする組織的運動へとつないでいき、全ドイツ的規模に発展・成立させた。外国の美術工芸運動ともつながりを持つ。拠点であったハンブルク美術館を、「(子どもも含めた)市民の芸術教育に常に関与する施設」と位置付けていた。20世紀初頭のハンブルクは「国際的意識を持つ美術館」のある街だった。

ハンブルク・グループ
ビラの配布に協力したハンブルクのグループについて、『白バラ抵抗運動の記録』以外で比較的詳しく書かれているものは下記の二冊。

『ナチスに権利を剥奪された人びと』
ビラの複写と配布を行ったカール・ルートヴィヒ・シュナイダーのインタビューがあり、ハンブルク・グループの輪郭が見える。「半数は学生、残りは教員や医師、出版業者、つまりインテリでした」。シュナイダーは自分が抵抗活動に加わった要因の一つとして、リヒトヴァルク学校に通っていたことを挙げている。また、父親がハンブルク・アメリカ航路で働いていた事からドイツと他国を比較することや、ドイツに対する外国の反応も知ることができた、と答えている。

『ナチズム下の女たち』
1921年生まれのインゲ・シュトルテンの体験が記録されている(ファシズム下の青春―ある女優の場合)。「ハンブルクの学校にはマルクス主義的、自由主義的伝統が強かった」。ヒトラーがハンブルクを訪れたときの出来事も語っている。演説するヒトラーの様子に笑い出してしまった彼女は、主催者に追いかけられながら会場を逃げ出したが、翌日担任教師からは「もっと目立たないようにやりなさい」と注意を受けただけだった。カール・ルートヴィヒ・シュナイダーとは親しい友人で、彼女はサークルにも参加していた。ミュンヘン大学化学研究所の学生ハンス・ライペルトともこのサークルで知り合っており、1942年末、ライペルトの家で開かれた集まりについて語った箇所もある。

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