アレクサンダー・シュモレル

 どんな政府が誤りを犯さないのでしょうか?
 いやそんな政府は無い。過ちを正すために、誤りを示されること、
 そのことに政府は本当に感謝するべきでしょう。

1943年3月8日 



1917年9月16日、ロシア・ウラル地方のオレンブルクでアレクサンダー(アレックス)は生まれた。父はロシア生まれのドイツ人、母はロシア人でロシア正教の司祭の娘。

シュモレル家はアレックスの祖父の代にロシアに定住。父はミュンヘン大学医学部で医学を学び、ロシアに戻った後、医者となった。しかし第一次大戦により、敵国人としてモスクワから収容所のあるオレンブルクに抑留される。母は1919年にチフスにかかり死亡。父は翌年、ロシア生まれのドイツ人女性と再婚、一家は1921年にミュンヘンに移住した。

シュモレル家の会話はミュンヘンに移った後もロシア語だった。ロシア人の子守りの女性はアレックスのために、ロシア語でロシア民話を語り、童謡を歌い、彼が覚えていない実母の話をした。また彼はロシア正教の教会籍を持ち、両親もロシア人としてのアレックスを尊重したため、正教の教育を受けて育つ。彼はロシア語を母語とし、故郷・ロシアに深い愛情と憧れを持ち続けた。

1936年、大学入学資格試験を終えた後、前年義務化された帝国勤労奉仕に参加させられる。起床から就寝まで規則で縛られた耐えがたい生活を半年間なんとかやり過ごし、1937年11月には兵役のため国防軍に入る。馬好きの彼は騎兵砲隊を選ぶが軍隊生活にはやはりなじめず、また占領軍の一員としてオーストリア併合によりリンツへ、その後ズデーデンへ入るなど、体制への拒否反応から一時は精神的危機に陥るほどだった。

兵役を終えた1939年春、ハンブルク大学医学部に入学。しかし半年後に戦争が始まり、学生中隊に招集され翌年衛生兵としてフランスへ。秋には中隊からミュンヘンで医師予備資格試験を受けるよう命じられた。1941年1月に試験を終えたころから同じ中隊所属のハンス・ショルと親しくなったと考えられている。また、ハンブルク大からミュンヘン大へ移ってきた友人、トラウテ・ラフレンツをハンスに紹介したのもアレックスだった。8月から10月上旬までの病院実習に、アレックスとハンスは同じ病院を選ぶなど、この頃二人は常に行動を共にしていた。

1942年6月から7月の間に、アレックスはハンスと共に4種類の反ナチスのビラを作成しミュンヘン市内に配布する。7月中旬、東部前線での医療実習命令によりアレックスはハンス、ヴィリーとともにロシアへ向かった。「母国」ロシアでは自由になる時間に通訳を務め、土地の農夫や漁師と親しく接する機会を作った。知り合ったロシア人との交流は非政治的なものだったが、彼らはすでにワルシャワのゲットーで親衛隊とユダヤ人の様子(1942年7月はトレブリンカのガス室にSSがユダヤ人を送り始めた時期)を目撃していた。さらにロシア(ソ連)で「下等なスラブ民族」「共産主義者」たちに対するドイツ軍の暴挙を目の当たりにしたことは、彼らに抵抗運動の継続と拡大を決意させた。

1943年1月、以前よりも大量に作られた第5のビラがミュンヘン以外の街から投函されドイツ各地へと広がった。2月には、ハンス、ヴィリーと共に深夜に数回、ミュンヘン市内の数10箇所に「自由」「打倒ヒトラー」などのスローガンをタールで書いてまわる直接行動もしている。中旬には第6のビラが完成し投函された。しかし2月18日、ハンス、ゾフィーのショル兄妹が大学構内でビラを撒いているところを見つかり逮捕される。アレックスは彼らが連行されるのを近くで目撃したらしく、その日のうちに逃亡を試みた。しかし2月24日の空襲の夜、防空壕にいたところを知り合いの女性に発見され警備隊員に引き渡された。

ショル兄妹は逮捕から4日後に裁判が開かれ即日処刑されたが、アレックスの裁判は多くの白バラ関係者と同じく、逮捕から約2ヵ月後の4月19日、ヒトラーの誕生日の前日とされた。アレックスは死刑判決を受け、即日処刑にはならなかったものの家族による助命嘆願はヒトラーによって却下され、7月13日に処刑された。彼は処刑前に会った弁護士に最後の願いとして、ナチスが倒れた後、彼の逮捕の原因となった人物が自分を裏切った責任を問われ辛い思いをしないよう、この人物の名を明かさない事を頼んでいった。



トップのアレックスの言葉は逮捕後に警察で書いた「政治的信条」の中の一文です(『ドイツにおけるナチスへの抵抗1933-1945』ペーター・シュタインバッハ、ヨハネス・トゥヘル編/田村光章 他/現代書館)。白バラについての本の中には書簡などのアレックス自身の言葉が少なく、周囲の人々のアレックス評を参考にするしかない、という感じでした。ハンスと同じ中心人物であるのに、残念です。

内容には『ミュンヒェンの白いばら』を中心に『白バラ抵抗運動の記録』『白バラを生きる』を参考にしました。(書誌データについては参考文献ページ 「Library」 を参照のこと)


1917年9月6日 ロシアのオレンブルクで生まれる  ロシア正教の洗礼を受ける
1919年(2歳) 母死亡  翌年父はロシア生まれのドイツ人女性と再婚 
1921年(3歳) 夏 ドイツ・ミュンヘンへ移住
1936年(18歳) 春 大学入学資格試験合格  半年の勤労奉仕動員
1937年(20歳) 11月 騎兵砲隊にて兵役  
1938年(21歳) 春 リンツへ(オーストリア併合により)
秋 ズデーテン地方へ(ズデーテン侵攻により)
1939年(21歳) 春 ハンブルク大学医学部入学
1940年(22歳) 春 学生中隊に招集 衛生兵としてフランスへ  秋 ミュンヘン学生中隊に配属
1941年(23歳) 1月 医師資格予備試験合格  8月 ハルラッヒングの病院にて2ヶ月の実習
1942年(24歳) 6月〜7月 「白バラ」ビラ1号〜4号作成・配布 7月23日 前線実習のためロシアへ
    (25歳) 11月 実習終了によりミュンヘンに戻る
11月13日頃 ケムニッツへハルナックを訪ねる
12月 実業家グリミンガーに資金提供依頼のためシュトゥットガルトへ
1943年(25歳) 1月 ビラ5号作成・配布
2月3日、8日、15日深夜 ハンス、ヴィリーと塗料で「打倒ヒトラー」「自由」落書
2月12日 ビラ6号作成
2月18日 ショル兄妹逮捕を知り、偽造パスポートを作りオーストリア国境近くまで逃亡
2月24日 ミュンヘンで逮捕される
4月19日 公判 国家に対する反逆と利敵行為の罪で死刑宣告
7月13日 シュターデルハイム刑務所にて斬首

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