クリストフ・プロープスト Christoph Probst

 人生がまだ僕たちを必要とし、
 僕たちが創造主にとってはおそらく
 単に風に舞う塵よりは大切な存在だろう、と期待することが、
 僕たちには許されているはずだ。

1943年2月4日 



1919年11月6日、南バイエルンのムルナウでクリストフは生まれた。両親と姉アンゲリカ(1918年生)の4人家族。彼が子供の頃に両親は離婚しそれぞれ再婚。新しい母がユダヤ系の女性だったため、1933年のナチス政権掌握以降、プロープスト家には政治的緊張が続くことになる。1935年、ニュルンベルク法成立により継母は市民権を失い、父との結婚は無効とされた。その翌年、父が亡くなったため、継母を守る役割を16歳のクリストフが受け継ぐことになった。

1930年からの7年間で姉弟が通った学校は4校。そのうちの2校は私立の寄宿学校の田園学園(マルクワートシュタイン、ショーンドルフ)だった。共同生活を重視しながら生徒の個性も尊重するこれらの学校では、寮生活に影響力を持とうとするナチスの干渉を最小限に防いでいた。1935年にはミュンヘンの高校でアレクサンダー・シュモレル(アレックス)と知り合い親しくなっている。成績優秀だったクリストフは飛び級をして17歳で大学入学資格試験に合格、勤労奉仕を済ませた後に空軍で1年の兵役につき、1939年春にミュンヘン大学医学部に入学した。

ミュンヘンでの病院実習の際、クリストフはヘルタ・ドールンと知り合い、翌年の1940年初春、二人は結婚する。6月には長男ミヒャエルが誕生した。彼女はカトリックであり、生まれた子供もカトリックの洗礼を受けた。クリストフ自身は父親の考えから幼児洗礼を受けず、どの宗派にも属してはいなかったが、義父ハラルト・ドールンがカトリック知識人で、彼からカトリックの文学・哲学の雑誌「高地」の編集者カール・ムートや寄稿者テオドール・ヘッカーらを紹介され、次第にカトリックに傾いていく。1941年12月に生まれた次男フィンセントもやはりカトリックの洗礼を受けた。

クリストフは高校時代の友人アレックスを介してハンスを知ったと考えられている。11月にクリストフはシュトラスブルクへ移るが、翌年の1942年4月には再びミュンヘンに戻り、その2ヶ月後に「白バラのビラ」がミュンヘンの街に現れた。

クリストフの白バラでの役割はあまりわかっていない。しかし姉アンゲリカは、精神病患者らの安楽死殺人に対してクリストフが、「いかなる場合にも神の意思に介入してはならないのだ」とはっきりと反対意見を述べたのを記憶している。父が鬱病らしき病から療養所に入り、そこで事故死(自殺ともいわれている)しており、またユダヤ系の継母を匿いながら暮らしているクリストフは、白バラの活動に肯定的だったと考えられる。

ハンスたちがロシア医療実習から帰国した1942年秋には、今度はクリストフがインスブルック(オーストリア)へ異動になる。妻は第3子の出産間近で、家庭、大学、軍と時間的制限があるにもかかわらず、クリストフはミュンヘンまで来た時には時間のゆるす限り、ハンスの下宿に顔を出し会合に参加していた。2月の深夜にハンスたちが行った反ナチスの落書きについて聞いたクリストフは、あまりにも危険だと非難したという。白バラの活動以外でも、長い間ユダヤ系の継母を匿い密かにナチスと闘ってきた彼は、グループの中でも慎重論派だった。

1943年2月18日、ショル兄妹が大学構内でビラを撒いていたのを通報され、秘密警察に逮捕される。クリストフの手書きの草稿をハンスが持っていたため、翌日19日、クリストフもインスブルックで逮捕された。この草稿以外、白バラとクリストフとのつながりを示す証拠は何一つ発見されておらず、ハンスがこれをタイプし手書きの草稿を破棄していれば、クリストフは尋問すらされなかったはずだった。

3日間の尋問の後、2月22日に民族裁判所で3人は死刑判決を受ける。クリストフは家族の為に助命を嘆願し、ハンスもこれを支持し弁明しようとしたが、裁判長フライスラーは即座に却下。裁判を傍聴した人の手記によると「裁判長は審理の間中、ひたすら告発者であり、全く裁判官としての役割を果たそうとはしなかった」(『ミュンヒェンの白いばら』)。

判決後、クリストフはカトリックの洗礼を受けることを希望。同日シュターデルハイム刑務所で、刑務所付神父によって洗礼を受けた後、処刑された。



トップの言葉は姉アンゲリカ宛の手紙の中の一文です(『白バラ抵抗運動の記録』P.337/C・ペトリ・関楠生訳/未来社)。白バラ関連書籍に載っているクリストフの書いた手紙はどれも愛情に満ち溢れていて、どんな人だったのかもっと詳しく知りたいと思わせるものばかりです。ハンスやヴィリーとは違って、クリストフ一人では本になりにくいと思いますので、今ある文献以上に、クリストフについて描いた新しい白バラの本を待たずにはいられません。

内容には『ミュンヒェンの白いばら』を中心に、『白バラ抵抗運動の記録』C・ペトリ、『白バラ』関楠生、『白バラを生きる』M・C・シュナイダー、W・ズュースを参考にしました。(書誌データについては参考文献ページ 「Library」 を参照のこと)


1919年11月6日 南バイエルンのムルナウで生まれる
1935年 ミュンヘンの高校でアレックスと知り合う
1936年(16歳) 6月 父死亡
1937年(17歳) 3月 大学入学資格試験 4月〜10月 勤労奉仕動員 11月 空軍にて兵役
1939年(19歳) 春 ミュンヘン大学医学部入学
1940年(20歳) 初春 ヘルタ・ドールンと結婚 6月 長男ミヒャエル誕生
9月(?) 医師資格予備試験合格
 
1941年(22歳) 11月 シュトラスブルクへ移る 12月 次男フィンセント誕生
1942年(22歳) 4月 ミュンヘンに戻る
6月〜7月 「白バラ」ビラ1号〜4号(クリストフがどこまで関わっていたかは不明)
7月22日 ロシアへ向かうハンス、アレックス、ヴィリーの送別会に参加
1942年(23歳) 12月 インスブルックへ移る
1943年(23歳) 2月18日 ショル兄妹逮捕 ハンスが持っていたクリストフの手書草稿を発見される
2月19日 インスブルック学生中隊事務室へ給料を取りに行った際、逮捕される
2月22日 民族裁判所にて死刑判決 シュターデルハイム刑務所内でカトリックの洗礼を受ける
      17時、刑務所にて斬首

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