ハンス・ショル Hans Scholl

 今、生きるということが絶え間ない危険と同義になってしまった今。
 しかし、僕自身が危険を選んだのだから、僕は自由に、縛られないで、
 目標に向かって進んでいかなければ。   

1943年2月16日 



1918年9月22日、インガースハイムでハンスは生まれた。翌年一家はコッハー河畔の小さな町フォルヒテンベルクへ移住。父はここで町長をしていたが、その進歩的な改革はあまり受け入れられず、1930年、罷免される。一家(両親、姉インゲ、妹エリーザベト、ゾフィー、弟ヴェルナー)はルードヴィヒスベルクへ移り、さらに2年後の1932年ウルムへ移住した。

ナチスが政権を掌握した1933年、ハンスは14歳。ナチスはそれ以前の政権と異なり、トラー・ユーゲントと呼ばれる、年齢・性別により細かく分かれた組織をつくり、若い世代の面倒をよくみていた。父は早くからナチスに危機感を抱いていたが、ショル家の子供達はみな、ヒトラーの言う郷土愛や祖国の繁栄といった言葉に感染していく。ハンスはキャンプなどの団体行動においてユーゲント上層部も認めるほどのリーダーシップを発揮し、軍隊風の組織の中で昇進、中隊長となるが、その間も家では反ナチスの父との口論が繰り返されていた。

しかしハンスは徐々に自分の理想とユーゲントで見聞きするナチスの理想との違いに気づき失望していく。ユーゲントと距離を置くようになった彼は、親しい友人達と共に「d・j・1・11(ドイツ青年団11月1日)」という同盟系青年団に加わる。ナチスの政権掌握後、カトリック系以外の青年組織は全て解体されており、1936年当時、ヒトラー・ユーゲント以外の青年団に加わるということは「非合法活動に加わること」だった。非常に危険な行為であるにもかかわらず、彼は「d・j・1・11」の活動に積極的に参加し、ウルムのグループの中心的存在となる。

開放的で文化的な「d・j・1・11」の活動によって、ハンス達はコスモポリタン的な生き方を身に付けていった。両親はこの「危険な行為」にはまったく口出しをせず、彼らを黙って見守っていた。

1937年春、19歳のハンスは大学入学資格試験に合格。半年の勤労動員の後、さらに秋から1年間の兵役に就く。この頃、残存する青年団を摘発するため、全国で一斉捜査が始まり、1937年11月、ショル家も家宅捜査され、弟のヴェルナーと年長のインゲが逮捕、8日間拘留される。兵役に就いていたハンスは、ひと月遅れの12月に逮捕された。シュトゥットガルト拘置所に一ヶ月拘留され、「同盟青年団的策動」と「為替法違反」の罪で告発されたが、1938年のオーストリア併合による恩赦のため、審理は中止となった。

1年間の兵役を終えたハンスに、11月からテュービンゲンの病院で、医学部入学の前提条件とされていた衛生兵養成訓練と試験を受けるよう、命令が下る。翌1939年1月、試験に合格し、ようやく、21歳の春からミュンヘン大学医学部の学生となった。

1939年9月に戦争が始まってからも大学で医学研修を続けるよう命令があり、軍への召集は1940年3月だった。5月から6月にかけてベルギー、フランスへ。「これ以上自軍の人殺しぶりを落ち着いて見ていられるかどうか自信がありません(両親宛1940年6月6日)。」(『白バラの声』)と言っていたが、停戦のため7月以降は戦闘がなくなり比較的自由に過ごし、9月末の帰国まで、フランス各地の野戦病院であらゆる手術の助手として働き続けた。

帰国後すぐにまた学生中隊に配属されるが、そこで出された命令は「医師予備資格試験に合格するまで学生を続けること」だった。この1940年秋、同じ学生中隊に所属し、同じ命令を受けた青年の中にアレクサンダー・シュモレルがいた。

1941年1月、ハンスとアレクサンダー(アレックス)は試験に合格。夏学期終了後、二人は8月1日から10月上旬までの実習にミュンヘン市内の同じ病院を選び、10月中旬には2週間の休暇を利用し、ウィーン、リンツ、メルクなどドナウ周辺を旅する。11月の授業再開までの3ヶ月間、二人は常に行動を共にしていた。

1941年秋、ハンスとインゲはウルムの友人オトゥルに使いを頼まれ、ミュンヘン郊外に住んでいたカール・ムートを訪ねる。ムートはカトリックの文学・哲学の雑誌「高地」の編集者でカトリック刷新運動に貢献した人物で、当時「高地」はナチスによって発行禁止処分を受けたばかりだった。ムートはハンスに蔵書整理を依頼することで、キリスト教に関する膨大な蔵書に触れる機会を与え、また、「高地」の寄稿者であった高名な作家テオドール・ヘッカーらにも引き合わせた。

1942年6月、ハンス、アレックスは人々に抵抗を呼び掛けるビラを約2ヶ月の間に4号発行する。親しい友人トラウテは、その文章・引用などから書き手はサークル内の人間、おそらくハンスだと確信。ハンスはその問いには答えず、書き手と受け取り手双方を危険から守るためにも誰がビラを書いたのかを知る人間は出来るだけ少ない方がよいとだけ答える。これが白バラの方針となった。ハンスとアレックスがビラを作成し、他のメンバーは出来るだけ広範囲にビラが行き渡るよう務めた。

この活動が行われていた6月〜7月にも読書会は続いており、ハンスは7月10日にはテオドール・ヘッカーを招き、著作を朗読してもらっている。文学・哲学サークルとはいえ、当時ヘッカ−は講演及び執筆活動を禁じられており、警察に知られればヘッカーも学生達も逮捕される可能性のある会だった。この直後、所属する学生中隊にロシアでの前線実習命令が下る。不在の間のことを考え、危険のないよう謄写版を処分するなど、一時白バラの活動は停止され、7月23日、ハンスはアレックス、ヴィリーと共にロシアへ向かった。途中、ワルシャワのゲットーで見た「目をそむけずにはいられない」親衛隊とユダヤ人の様子に衝撃を受けながら、ロシアに到着する。

ロシア生まれでロシア語を母国語とするアレックスのおかげで、衛生兵として働く間に土地の農家を訪ね、素朴な人々とおしゃべりをし、飲んだり歌ったりして過ごすこともあった。弟のヴェルナーも偶然近くに配属されており、しばしばお互いを訪ねあう。ポーランドでの出来事や、ドイツ人の「下等なスラブ民族」であるロシア人に対する行為を実際にロシアで目にしたことにより、ハンスは抵抗運動の継続と拡大の必要性を痛感。ロシアから戻った彼が最初に始めたことはビラ作成よりも、ビラがドイツ中に同時に拡散するよう、各都市に学生組織を作ることだった。

夏前にはごく少数の人間にしかビラ配布活動を漏らさなかったハンスも、サークルのメンバーに同志集めを提案。ヴィリーはザールラントへ、ゾフィーはウルムへ、サークルの友人ユルゲンはベルリンへ、トラウテはハンブルクへ、それぞれ白バラのビラを持ち、協力者となりそうな旧友を訪ね歩いた。その間ハンスとアレックスはケムニッツ(ミュンヘンとベルリンの中間あたり)へファルク・ハルナックを訪ね、ベルリンの地下組織とのつながりと、活動やビラの内容に関するアドヴァイスを求めた。

そして12月9日、ハンスはフーバー教授を訪ねる。ハルナックに期待したことと同じで、抵抗運動やビラに関するアドバイスを求めることが主な目的だったと考えられている。もともと政治的見解にはいくらかの隔たりがあり、議論を重ねてもそれは変わらなかった。

1943年1月、ハンスは第5のビラを書く。このビラのタイトルは「白バラのビラ」から「ドイツ抵抗運動のビラ」に変わっていた。フーバー教授はこのタイトルには反対したが、学生達はそのまま印刷。内容も以前より明確でわかりやすくなっている。半月後には教授の手による第6のビラの草稿が届く。スターリングラード敗退をテーマに、ナチスへの皮肉から始まるこのビラは「栄光ある国防軍の戦列に加わりたまえ」で結ばれていた。この一文をめぐり学生達の意見が分かれたが、ハンスとアレックスはこの部分を削除して印刷した。

2月3日、8日、15日、ハンスはアレックス、ヴィリーと共に深夜ミュンヘン市内の通り、主に大学周辺で塗料を使い、壁に「打倒ヒトラー」「自由」と大書してまわる。これは郵送される無記名のビラよりも、人々に与える衝撃は大きかった。

2月18日、ハンスとゾフィーはトランクに第6のビラを詰め、大学へ向かった。授業で静かになった構内でビラを撒いていたが、それを用務員に見つかり通報され、秘密警察に逮捕された。ハンスが持っていたクリストフの手書きの草稿も発見され、彼もまた逮捕されてしまう。ハンスはすぐに死刑を確信し、4日間の尋問の間できる限り仲間の存在を隠すよう努力している。そして2月22日、民族裁判所において死刑判決を受けた。

処刑前、牧師が聖書の朗読と聖餐式のためにハンスとゾフィーを訪ねた。ハンスは(愛の賛歌と呼ばれる)コリント人への第1の手紙13章と、詩編第90編の朗読を希望した。看守達が自ら危険を冒して、最後にもう一度3人を引き合わせてやろうとしたほど、彼らの態度は毅然としており、刑務所で彼らに接した全ての人間が心打たれていた。初めにゾフィーが、次にクリストフが処刑場へと向かい、最後にハンスが断頭台で斬首された。ハンスは断頭台に頭を乗せる前に、大きな声で「自由万歳」と叫んだという。



私にとって、ハンスの言葉で一番印象深いものは

「後になって共産主義者から、キリスト教徒は何をしたのだと言われたとき、自分達はこれこれのことをしたと胸を張って言えるようでなければ」(『ミュンヒェンの白いばら』P231/山下公子/筑摩書房)

でした。しかし、これは姉インゲの記憶の中の言葉であり、いつ頃か(おそらく1942年のクリスマス)はっきりとわからなかったのでトップの言葉には使いませんでした。かわりに、逮捕の2日前に書かれた、恋人と思われるローゼ・ネーゲレ(白バラとは無関係)宛の手紙の中の言葉を使いました。

逮捕のきっかけになった大学構内でのビラ撒きについては、文献によっては死を覚悟した行為のようにも言われていますが、私にはそうは思えなかったので、あえてこの、生きて活動を続けるという宣言にも取れる言葉を選びました。

内容には『ミュンヒェンの白いばら』を中心に、『白バラは散らず』インゲ・ショル、『白バラ抵抗運動の記録』C・ペトリ、『権力と良心』クラウス・フィールハーバー他、『白バラの声』インゲ・イェンス、『白バラが紅く散るとき』ヘルマン・フィンケ、『白バラ』関楠生、『白バラを生きる』M・C・シュナイダー、W・ジュース、を参考に致しました。(書誌データについては参考文献ページ 「Library」 を参照のこと)



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