クルト・フーバー Kurt Huber

 大反逆の審判も、わたしから大学教授の尊厳と、
 世界の国家に対する見解を堂々と勇気をもって公言する
 人間の尊厳とを奪うことはできない。
 厳しい歴史の流れは、
 わたしの行動と目的の正しさを証明してくれると思う。

1943年4月19日 



1893年10月24日、クルト・フーバーはスイスのクアで生まれた。父親はシュトゥットガルトの商科大学の設立者で、同様の商科大学を作るためにクアへ招かれ来ていた。一家は彼が4歳の時にシュトゥットガルトへ移った。教育者一族のブルジョワ的家庭で、フーバーは4人兄弟の3番目の子どもとして育ったが、幼いうちにかかった高熱を発する病のために、足と発声にわずかな障害が残った。歩く時に少し足を引きずる程度のこの障害を、立居振舞を大変気にする彼は恥じていたという。第一次大戦中はこの障害のため兵役免除となっている。

両親は子どもたちの音楽教育に特に熱心だった。1917年、彼は音楽学で学位を取り、1920年には大学教授の資格も得る。1926年からはミュンヘン大学で員外教授として週4時間、実験心理学、応用心理学、音楽心理学、哲学の講義を持つようになった。異なる分野のように思えるこれらの学問は、彼の中では民謡学の研究という点でひとつにつながっていた。1929年、民謡集『バイエルンの民謡』を編集・発行し、民謡学の分野で業績を上げる。またこの年、クララ・シュリッケンリーダーと結婚し、翌年には娘が生まれている。

もともと保守派で反共主義者だった彼は、ナチスの民族主義は彼の研究にもある民族的要素と近いものと考え、1933年にナチスが政権獲得した時にも共感をもって支持していた。しかし徐々にナチスの偏狭な民族主義に失望して行く。また、障害者を反社会的存在とするナチスにより、軽度の身体障害を持つ彼は昇進の機会を奪われる。党員にもならなかった彼は、僅かな収入で妻と娘を養っていかなければならなくなった。

経済的に苦しくなった1939年、夫人はナチス事務局へ行き、無断で夫の入党届を提出した。それを知ったフーバーは激怒したが、結局はこの事実を受け入れるしかなかった。収入はすぐに増額されたが、今度は党から「直ちに教会から脱退し、娘には学校での宗教教育の授業を受けるのを止めさせるように」との指令が出る。入党せざるを得なかったことで傷ついていたフーバーは、この指令には決して従わない、と党事務局へ怒鳴り込んだ。「ミュンヘン大の教授」を党員として逃がしたくないと考えた党事務員が彼をなだめ、本部には話を合わせておくことにしてその場を収めた。

収入は多少増えたものの、大学では依然員外教授であり、正教授にはなれなかった。しかしフーバーの講義には様々な学部から多くの学生が集まって来ていた。大学のほとんどの教授がナチスに同調していた中で、彼の講義では体制に否定されていた思想家や作家も取り上げ、高く評価し、学生達に紹介していた。それだけではなく、時には平然とナチス批判を口にすることもあった。

1942年夏学期中に、ある私的な集まりでフーバーはハンス・ショルと知り合った。講義を受けている多くの学生の中の一人だったハンスは、これ以後積極的に教授に近づいて行く。この頃既にフーバーは差出人不明の「白バラ」のビラを郵便で受け取っていたが、それらのビラについて「危険が多いばかりで効果が期待できない」と語っていた。しかし7月22日、ロシアへ前線実習に行く学生たちの送別会に招かれたフーバーは、議論が進むうちに興奮し、ドイツの文化財を破壊から守るために、戦争終結のためなら「非合法であれ合法であれ、手段を選んではならない。何でもやるべきだ。宣伝活動であれ、サボタージュであれ、あるいは積極的に武器の力を借りるのであれ。」と口走ってしまった。ハンスはフーバーのその意見に同意したが、ビラの書き手が自分であることを、この時はまだ明らかにはしなかった。

学生達が実習を終え、ミュンヘンに戻って1ヶ月たった1942年12月9日、フーバーはハンスの訪問を受け、初めて、彼らが行ってきた活動について知らされる。ハンスはこれからの活動に関して語った際、国防軍のベック大将と連絡をつけていると話を誇張している。国防軍を全面的に信頼していたフーバーは、この話を聞き非常に喜んだという。12月17日、1月9日、13日、ハンスの下宿やフーバー家でヴィリー・グラーフらも加わり、活動についての話し合いが持たれた。2種類のビラの草稿を渡されたフーバーが、ハンスが書いた草稿を選び、それが第5のビラとして印刷され、1月中にドイツ各地へ撒かれて行った。

1943年2月、スターリングラード敗戦にショックを受けたフーバーは、それまでの相談役の立場から踏み出し、「同朋女子学生諸君!同朋男子学生諸君!」ではじまる文書を書き上げ、学生たちに渡した。党に対する戦いを訴え、学問と精神的自由を求めるこのビラは、第6のビラとして2月中旬に印刷された。

しかし学生たちは草稿の最後にあった「栄光ある国防軍の戦列に加わりたまえ」という文を削除している。この文についてはグループ内で意見の対立があったが、ハンスとアレックスが掲載を拒否し、削除した形で印刷された。反ナチスという点では共通していた白バラの人々も、抵抗の規模などについてはそれぞれ異なる意見を持っており、「国防軍の力を借りずに政府を倒すことなどできはしない」というフーバーの考えは、(軍は政府と一体である、と中立性を信じていなかった)学生たちには受け入れがたいものだった。フーバーは、学生たちがこの決定的な文章を勝手に削除して印刷しようとしたことに腹を立て、これ以後彼らには会わずにいた。

2月18日、ショル兄妹がこのビラ約千枚を大学構内で撒いているところを見つかり、逮捕される。フーバーは疑いを招く恐れのある手紙や書類を焼き捨てたが、やがて自分も巻き込まれることは覚悟していた。27日早朝、彼は自宅に踏み込んできた警察に逮捕された。

1943年4月19日、他の多くの白バラ関係者とともに、フーバーは裁判にかけられ、ヴィリー、アレクサンダーとともに死刑判決を受けた。フーバーはその後の時間を、出版社から依頼されていたライプニッツの評伝を書き上げるために費やした。ライフワークの完成を目指したとも、自分の死後、家族が経済的に苦しまないよう、印税収入を残そうとしたとも考えられている。彼は員外教授の職と資格、そして学位を剥奪されており、遺族に年金が支給される可能性はなくなっていた。しかし間に合わず、評伝は未完のまま残され、フーバーとアレクサンダーの処刑は7月13日に執行された。



トップの言葉は4月19日の公判でフーバー教授が行った「最終陳述」の中の言葉です(『反ナチ抵抗者の獄中書簡』P.136/ゴルヴィッツァー編・大岩美代訳/新教出版社)。フーバー教授が信頼した国防軍からは、唯一成功しかけた抵抗運動である「1944年7月20日事件」が生まれています。しかし、ヒトラー暗殺は未遂に終わり、ベック大将(ルートヴィヒ・ベック陸軍上級大将)は自殺に追い込まれます。

内容には特に『ミュンヒェンの白いばら』を中心に、『白バラ抵抗運動の記録』C・ペトリ、『白バラを生きる』M.C.シュナイダー、W・ズュース、『白バラ』関楠生、『ドイツにおけるナチスへの抵抗1933-1945』ペーター・シュタインバッハ、ヨハネス・トゥヘル、を参考にしました。(書誌データについては参考文献ページ 「Library」 を参照のこと)


1893年10月24日 スイスのクアで生まれる
1897年(4歳) ドイツのシュトゥットガルトへ移る
1903年(10歳) エーベルハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウム入学
1911年(18歳) 父 死亡
1917年(24歳) 音楽学で博士号
1920年(27歳) 教授資格を得る
1925年(32歳) ドイツ・アカデミー民謡研究顧問となる
1926年(33歳) ミュンヘン大学員外教授となる 哲学・音楽学・心理学の講義を受け持つ
1929年(36歳) 「バイエルンの民謡」編集・発行  クララ・シュリッケンリーダーを結婚
1930年(37歳) 長女ビルギット誕生
1936年(43歳) バイエルン州音楽学民謡収集所長  バルセロナでの国際民族音楽会議にドイツ代表として出席
1937年(44歳) 6月もしくは7月 民謡資料館館長としてベルリン招聘
1938年(45歳) ミュンヘンへ戻る
1939年(46歳) 夏学期 ミュンヘン大学に戻る  長男誕生  ナチスへ入党届提出
1940年(47歳) 4月1日付けナチス入党
1942年(48歳) 6月頃? ハンス・ショルと個人的に知り合う
7月22日 ロシアへ向かう学生の送別会に出席
12月9日 ハンス・ショルから「白バラ」の活動を打ち明けられる
1943年(49歳) 1月13日 「ドイツ抵抗運動のビラ」の草稿を渡される
2月8日 「同朋女子学生諸君!同朋男子学生諸君!」のビラの草稿を書く
2月18日 ショル兄妹逮捕
2月27日 グレーフィングの自宅にて逮捕
4月19日 民族裁判所にて死刑判決
7月13日 ミュンヘン・シュターデルハイム刑務所にて斬首

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