ヴィリー・グラーフ Willi Graf

僕が軽率な行動をしたのではなく、深い憂慮から、
そしてまた重大な状況を意識した上で行動したのだということは、
君にもわかっているはずだ。

1943年10月12日 



ヴィリー・グラーフは1918年1月2日、ラインラントのクーヘンハイムで生まれた。経済的に恵まれたカトリック家庭に育ち、4歳の時に家族でザールラントのザールブリュッケンへ。1929年、カトリック系青少年組織「新ドイツ」に入り、1934年にはカトリック系青年団「灰色会」に所属する。

当時ザールラントは国際連盟管理地域だったためヒトラー・ユーゲント以外の青年団も違法ではなかったが、1935年にドイツに復帰して以降、彼らの活動は非合法となり、旅行では人を避け、道を選んで歩くことになる。フリッツ・ライストを中心とする灰色会は特に宗教、文学など精神的問題への関心が高かった。青年団に所属していること自体が危険であった時代、そこでの仲間は家族以上の意味を持っており、彼ら「同志」たちは固い絆で結ばれていた。

1937年、ヴィリーは大学入学資格試験に合格、11月にボン大学医学部に入学したが二ヶ月後の1938年1月に「同盟青年団的策動」のかどで秘密警察に逮捕される。灰色会のメンバーも多数逮捕されたが、オーストリア併合による大特赦のため起訴は取消しとなった。1939年、医師資格予備試験を済ませ、閉鎖の可能性のあったボン大学からミュンヘン大学へ移った。しかし翌年1月に召集され、衛生兵として2年以上の軍隊生活を強いられる。ロシアには1年近く留まり、侵略者・迫害者であるドイツを思い知らされることになった。

1942年4月、ミュンヘンの学生中隊に配属となり、ミュンヘン大学での勉強を再開する。いずれ来る敗戦をただ待つだけで良いのか?漠然とそう考え始めていたが、灰色会の同志たちは抵抗運動には否定的だった。ヴィリーがハンス・ショルと知り合ったのはこの頃で、彼はハンスに惹きつけられ、急速に親しくなっていった。白バラの初期のビラ(1942年6月〜7月)に関わっていたかは不明。しかし7月〜10月のロシアでの医療実習から帰った1942年秋からは、各地へ同志集めの旅に出るなどビラの配布に深く関わっている。

クリスマス休暇で故郷ザールブリュッケンに帰った彼は新ドイツ時代の同志を訪ね歩き、抵抗運動への協力を求めている。ほとんどの同志が反ナチでは意見は一致しても、抵抗運動については否定的だった。しかし、フライブルク大学の哲学科助手になっていたハインツ・ボリンガーだけはフライブルク大学の抵抗グループについて語り、ミュンヘンの学生たちへの協力を約束。ヴィリーはミュンヘンとフライブルクの組織のパイプ役を果たすことになった。

1943年2月深夜、ヴィリーはハンス、アレックスとともにミュンヘン市内各所に「打倒ヒトラー」などのスローガンをタールで大書きする直接行動にも参加している。ショル兄妹が逮捕された2月18日、ヴィリーも深夜自宅前で逮捕された。処刑された白バラ関係者6人のうち、ハンス、クリストフ、ゾフィーが2月に、アレックス、フーバー教授が8月に処刑されたが、警察は残る協力者の名を聞き出そうとヴィリーの処刑を延期し、10月まで取調べを続けた。しかし彼は協力者を守り通し、新たに逮捕者を出すことはなかった。

処刑当日、ヴィリーは妹アンネリーゼからの手紙を受け取った。彼は処刑直前にその返事を司祭に伝え、書き留めてもらった。「ぼくの友人たちに対しても、きみが、ぼくの思い出と意志を保持していく役目を受け持ってもらいたい。友だちのみんなに、ぼくの最後の挨拶を伝えてくれたまえ。みんなに、ぼくたちの開始したことを受け継いでもらいたい。」



トップの言葉は、処刑直前に書かれた妹宛の手紙の中から選びました(『権力と良心』P211/フィールハーバー他編/未来社)。

内容には特に『権力と良心』と『ミュンヒェンの白いばら』(山下公子/筑摩書房)を参考にしました。(書誌データについては参考文献ページ 「Library」 を参照のこと)


1918年1月2日 ボンの西南に位置するオイスキルヒェン近郊のクーヘンハイムで生まれる
1922年(4歳) フランス国境に近いザールブリュッケンへ移住
1928年(10歳) 人文系ギムナジウムに入る
1929年(11歳) カトリック系青少年グループ「新ドイツ」に加入
1934年(16歳) 「灰色会」に加入  夏のラップランド旅行  新年のスキーキャンプ
1935年(17歳) 夏のイタリア旅行
1936年(18歳) 新年のアイフェルのヒンメルロート大修道院におけるキャンプ
復活祭のシュヴァルツヴァルトのザンクト・ペーターにおけるキャンプ
夏のバルカン旅行
1937年(19歳) プロイベルクにおける冬のキャンプ
復活祭におけるケーニヒスホールのキャンプ
大学入学資格試験  夏のバルカン旅行  ボン大学医学部入学
1938年(20歳) 1月 非合法青年運動に関わった罪で逮捕され3週間拘留される
3月 オーストリア併合の大特赦により不起訴、裁判打ち切りとなる
1939年(21歳) 医師資格予備試験合格  9月 実習の為ミュンヘン大学へ移る
1940年(22歳) 衛生兵として召集 ベルギー、南フランス、クロアチアなどへ
1941年(23歳) 夏頃(?) ポーランドからロシアへ移動
1942年(24歳) 4月 ロシアからミュンヘンに戻る  5月頃(?) ハンス・ショルらと知り合う
6月〜7月 「白バラ」ビラ1号〜3号(ヴィリーは関わっていなかったと思われる)
7月 ビラ4号作成と配布(ヴィリーがかかわったかは不明)  東部前線での実習の為ロシアへ
11月 ミュンヘンに戻る  休暇でザールブリュッケンへ  妹アンネリーゼとミュンヘン大学へ戻る
12月 クリスマス休暇を利用し協力者獲得のため旧友を訪問してまわる
1943年(25歳) 2月3日、8日、15日深夜 ハンス、アレックスと塗料で「打倒ヒトラー」「自由」落書
2月18日 逮捕
4月19日 公判 国家に対する反逆と利敵行為の罪で死刑宣告
10月12日 シュターデルハイム刑務所にて斬首

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